日本セヴラック協会

セレについて

セレは、フランス、オクシタニー地域圏、ピレネー=オリアンタル県のコミューン。1950年にできたセレ現代美術館で知られます。

【地理】
コミューンの境界をなすテック川谷、ヴァルスピル地方の入り口に位置し、ピレネー山脈の北麓で、東の地中海まで約24km、カニグー山の西20kmほどにあります。現在のテック川はコミューンの旧市街から約2km離れ、コミューンより約50フィート下を流れています。このために長い間川から水を直接くみ上げることができませんでした。上水道は井戸や運河の掘削によって獲得してきました。
1866年に運河が掘削され、畑の灌漑に利用されるようになりました。現在、飲料水はテック川上流でくみ上げられた水が利用されています。
セレの気候は地中海性気候で、暑く乾燥した夏が特徴です。冬は、北から吹くトラモンターヌ風のため温暖です。

【歴史】
セレの歴史はカロリング朝期に始まります。セレを領有した伯領はやがてルシヨン伯に依存しました。名が初めて伝えられた時のセレは、アンピュリアス伯の封土となっていました。セレの封建時代の城はこの時代に築かれました。

1172年、アラゴン王・バルセロナ伯アルフォンソ2世が、直系子孫の絶えたルシヨン伯領を継承しました。1262年、ハイメ1世は、在位中に王国を2人の息子たちに分割相続させ、マヨルカ王国を継承したジャウメが、ルシヨンおよびセレの領主となりました。マヨルカ王国時代、セレに城壁と堀、ベネディクト会派のサン=フェレオル修道院が築かれました。

ハイメ1世の子孫たちによる政治対立の結果、マヨルカ王国はアラゴン連合王国の領土となりました。ペドロ4世は1344年、ルシヨンを侵略し併合しています。

1268年、カステルヌー子爵ギヨーム5世は、妻の持参金となっていたセレを獲得しました。マヨルカ王サンス1世時代の1313年、セレに9箇所の水の噴出す泉がつくられました。

当時の流行と政治的打算から、コミューンを管理する子爵によって自治の体系が整えられ、毎年セレ住民の中からコミューンの執政官(consul)が選出されました。1321年頃、コミューンは悪魔橋を建設しました。建設費用はコミューンと、テック川上流の村々との間で折半されました。

カスティーリャ王女イサベル(イサベル1世)と、アラゴン王子フェルナンド(フェルナンド2世)の結婚によって、セレはスペイン王国に属することとなりました。この出来事をきっかけに、9箇所の噴水の噴出孔はスペイン王の紋章であるライオンで飾られました。

フランスとスペインが戦争中の1641年、セレはイル=シュル=テートと等しく特権を与えられました。次の特権は、西仏間の新しい国境を定めるピレネー条約交渉中の1660年に与えられました。セレを含むルシヨンがフランス領となり、セレの特権は停止されました。噴水のてっぺんを飾っていたライオンはスペインやフランスを巡回し、ラテン語でVenite Ceretens, leo factus est gallus(セレ住民よ来たれ。ライオンはニワトリとなった)と刻まれました。

1581年、カプチン会派修道院が建てられました。1648年にカルメル会派修道院が建てられました(現在のこの場所には、タウンホールと観光事務所があります)。カプチン会とカルメル会の競争関係は対立を生み、フランス革命によって両方の建物が壊されて決着しました。ルシヨン戦争中の1794年から1795年、セレはスペインに占領されました。

20世紀初頭、フアン・グリス、パブロ・ピカソといったキュービズムの芸術家がセレを訪れ、セレは『キュービズムのメッカ』(Mecque du cubisme)と呼ばれました。

1922年、闘牛用のアレーナ(闘牛場)が建設されました。なお、セレの闘牛の伝統は1577年から確認されています。毎年、祝祭の際に闘牛が行われています。セレはフランス闘牛自治体連合の一員です。

スペイン内戦期、セレはフランコ派の攻撃から逃れ国境を越えた避難民たちを大勢受け入れていました。第二次世界大戦中は、フランスからスペインへ向かうレジスタンスたちの通過点でした。